タイガースの歴戦記No.5 ブレーザー政権~神様に迫る福間納まで

阪神タイガースの過去を振り返ります。

今回は、ブレーザー監督の1979年~稲生の記録越えかと世間を騒がせた福間納が活躍する1984年にさかのぼります。

1979年、監督に就任したのは、ドン・ブレイザー氏。 ブレーザー氏は南海の監督時代にシンキング・ベースボールと 呼ばれた緻密な野球を組み立て日本球界に革命を起こした 人物で、その就任には阪神タイガースへのその考え定着が期待された。

打線では、主砲でミスタータイガースと呼ばれていた田淵幸一の 後継者 掛布雅之が当時のチーム新記録となる48本塁打と活躍、 投手では、小林茂は22勝(内8勝は古巣巨人から上げる)

しかし、優勝は広島東洋カープで、阪神タイガースは8月下旬に 戦線から離脱し、4位に留まる。

ドラフトで6球団の抽選の上、交渉権を獲得、東京6大学の スター、岡田彰布のの入団という明るいニュースから スタートした1980年。

この岡田の起用法を巡り、ファンを巻き込んだ騒動が勃発。

最終的に監督ブレーザーが辞任し、後任には中西太が就任。

それから2塁手で起用された岡田は新人王を獲得するまでの 活躍。

しかしながら、チームは低迷し5位に終わる。

1981年、結果としては、優勝した巨人から8ゲームも 離され、3位だった。

この年のTOPIXは江本孟紀である。

監督中西太の起用法に不満が溜まっていた江本は、8月の ヤクルト戦の8回表途中の交代を命じられたことに対し、 ベンチ裏で新聞記者に『ベンチがアホやから・・・』と 発言。これが監督批判として大きく話題となり、謝罪する 一幕も。結局、江本はこの年限りでユニフォームを脱ぐことと なった。

1982年、監督に就任したのは、安藤統男。

勝利数は優勝チームに一つ上回るものの、優勝中日とは 4.5ゲーム差、巨人とは3ゲーム差の3位になった。

この年は、6~7月にかけて11連勝し、その後に8連敗を 喫す。

また、コーチによる審判に暴行を加えて、プロ野球史上、 初めての暴力行為による没収試合寸前で監督安藤の謝罪で 回避したというトラブルもあった。

神様に迫る男・福間納 1983年

1983年は、前年が勝利数が優勝チーム、2位のチームと ほぼ同じだったことから、優勝を期待する声尾が高まるなかで 開幕を迎えたが、シーズン序盤から巨人の独走を許し、 結果的に4位 1984年は、中継ぎとして福間納が活躍するも4位に留まる。

福間は稲生和久のシーズン登板記録78試合に迫るペースで 登板を重ね、世間の注目を浴びた。

その状況のなか、プロ野球記録を研究されていた宇佐美徹也氏 から監督の安藤の元に手紙が届く。

「稲尾の記録は400イニング以上投げて作られた中身のある記録。 中継ぎの登板で形だけの記録更新は考え直してほしい」 手紙の影響は定かではないが、結果的に福間の登板は 77試合となった。

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