阪神タイガースの過去を振り返ります。
今回は、戦後~1950年代の時代にさかのぼります。
大戦後再開とダイナマイト打線
日本のプロ野球は、第二次大戦で中断後、 1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)から復帰する。 合同チームや英語の使用自粛などで変更していた球団名も 大阪タイガースに戻したのもこのころである。
1947年は、監督権投手の若林忠志が44年と同様に活躍し、 最高殊勲選手賞(MVP)を受賞し、通算4度目、戦後初の 優勝を飾った。
当時の打線は、1番・呉昌征、以降、金田正泰、藤村、土井垣武 などとつながりリーグ屈指の強打者を並べた。
その為、「ダイナマイト打線」と呼ばれ、ファンを魅了した。
特に本塁打を量産する4番・藤村は、物干し竿と呼ばれ親しまれた 長いバットを用いて、「(初代)ミスタータイガース」と称された。
また、その藤村は、1948年の対金星戦(甲子園)で日本プロ 野球初のサイクル安打を達成し、また、その翌年1949年には、 チームが6位にも関わらず、最高殊勲選手賞(MVP)を獲得する などの活躍を見せた。
2リーグ分裂の混乱期
オフの新球団加盟問題で、波乱が起きた。
毎日オリオンズら新球団の加盟に賛成を唱えていたはずだったが、 最終的に反対派に覆り、読売ジャイアンツとともにセントラル・ リーグを創設し、日本のプロ野球は2リーグ分裂となった。
その阪神に裏切られた毎日のターゲットは阪神タイガースで、 主力選手を集中的に引き抜いた。
監督兼主戦投手の若林、を筆頭に 打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、 土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手) と合計6名。
それに加えて、タイガースに入団内定していた別府星野組の 左腕・荒巻淳投手も奪われてしまう。
毎日以外にも、西鉄クリッパースへ遊撃手・長谷川善三が、 大洋ホエールズへは門前眞佐人が移籍し、ダイナマイト打線の 面影は全くなくなってしまう。
その波乱で幕開けした1950年 新たに松木が監督に就任し、 前年を上回る4位というだったが、新規に加盟した球団を 除けば最下位という結果だった。
残留した若林を筆頭に、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、 白坂長栄らでチーム構成したが、レギュラーの3分の2が流出 した影響は大きかった。
その状況の打開の為、ファームの結成し、本格的なスカウト制度を 導入するなど、積極的なチーム改革を行った。
そのような成果として、1950年代には、吉田義男、渡辺省三、 小山正明、田宮謙次郎が台頭し、主力に育ち、好成績を残す ようになる。
しかし、黄金時代と言える水原茂監督率いる巨人には及ばず、 優勝から遠ざかってしまう。 (1951年~1959年の9年間で2位7回、3位2回)
お家騒動は1954年から
次には監督人事でドタバタ劇が始まります。
1954年限りで松木が監督を退任。 後任は、なんとプロでの経験がなかった岸一郎が起用された。
ファンやマスコミには驚かせたが、心配が的中し、 主力選手を対立し、成績も振るわず、シーズンが始まって 間もない5月中旬に休養に入る。
その為、助監督の藤村富美男が監督代行で指揮をとり、 シーズン終了後には正式に兼任監督に就任した。
しかしながら、この藤村も選手と合わず、1956年の シーズン終了後に藤村の監督退任を求め、一部の選手が 球団を対立する内紛劇が発生、2カ月近くを解決に要した。
結果的に藤村は監督専任となり、1957年は巨人を首位を 激しく争い、1.0ゲーム差の2位に甘んじる。
シーズン終了後、監督に田中義雄が就き、藤村は現役に 復帰するも、1959年限りで引退。 その功績を称え、藤村の背番号10は阪神初の永久欠番となった。