阪神タイガースの過去を振り返ります。
今回は、中村監督が就任した1990年~その苦戦から輝きを放った1992年にさかのぼります。
中村勝広青年監督が誕生 1990年
1990年 監督に40歳と若い中村勝広が就任。
前年、退団したセシル・フィルダーの主砲の穴を埋める為、 ヤクルトスワローズを自由契約となったばかりのラリー・ パリッシュを獲得する。
パリッシュは、前年、本塁打42本、103打点をマークし、 本塁打王のタイトルを獲得し、ベストナインにも選出される 活躍をするも、就任したばかりの監督、野村克也は、 三振の多さを低評価した為だった。
しかし、シーズンが始まると好調で本塁打を量産し、 単独トップの位置をキープするも、、8月に古傷の膝が 悪化してしまい、8月27日の試合を最後に突然引退 してしまう。
重ねて投手も受難だった。 外国人エースのマット・キーオが怪我もあり不振とあわせ、 監督の中村とそりが合わず、オフには自由契約になる。
他の投手も規定投球回数に到達した2人の投手の成績は 猪俣隆の5勝11敗、仲田幸司の4勝13敗と大きく、 負け越すような状態。
チームは2年ぶりの最下位に低迷した。 明るい材料は、投手では3年目の野田浩司は、 ロングリリーフを務めるなど活躍し、チームトップの 勝ち頭の11勝12敗を上げた。
打者では、掛布2世を期待されていた八木裕が成長し、 28本の本塁打を放った。
タイガース初、2年連続で、、1991年
1991年、中村勝広の監督2年目のシーズンが始まる。
この年は開幕5連敗、5月に8連敗、6月に球団ワースト の10連敗、7連敗と連敗続きで開幕から55試合経過時点で、15勝40敗の借金25、最下位から浮上することなく、シーズンが終わる。
中村は、阪神タイガースの2年連続で最下位になった 初めての監督となった。
打者では新外国人のトーマス・オマリーのみ発奮し、 唯一3割オーバーに。
投手は2桁勝利投手ゼロであったが、9月後半に、 ドラフト1位入団投手が相次いで完投勝利する。
9月22日 1988年のドラフト1位 中込伸、9月23日 1990年のドラフト1位 湯舟敏郎 、9月24日 1987年のドラフト1位 野田浩司 、9月25日 1986年のドラフト1位 猪俣隆 9月26日、1989年のドラフト1位 葛西稔 これはチーム14年振りの5試合連続完投勝利という 結果を残す。
暗かった1年の最後に来年に繋がる結果を残すことが できた。
ラッキーゾーン撤廃で投手王国へ 1992年
1992年は、本拠地 甲子園球場のラッキーゾーンが 撤去された事が有利に働き投手陣が活躍する。
仲田幸司がエースに成長し、中込伸は防御率リーグ2位と安定、 ノーヒットノーラン男、湯舟敏郎、と先発陣は安定し、 ストッパーでは、2年目、田村勤が活躍し、チーム防御率は、12球団ダントツの2.90。
攻撃陣では、前年孤軍奮闘だったトーマス・オマリーと共に 大洋を解雇され入団したジェームス・パチョレックも活躍。
さらに、亀山努・新庄剛志・久慈照嘉らの若手が台頭し、 戦力は充実する。
Aクラスを維持したまま、迎えた9月13日には首位に立つ。
しかしながら、やはり若手中心のチームは経験不足から10月に 入り、失速する。
10月10日のヤクルトとの直接対決で敗れ、優勝を逃し、 最終的には、巨人と並んで2位対の結果を残すという久々の快進撃でファンを喜ばした1年でした。