阪神タイガースの始まりは、日本のプロ野球の歴史と 重なります。
阪神球団の誕生
日本のプロ野球は、今の『読売ジャイアンツ』が、 1934年末に大日本東京野球倶楽部・球団名 『東京巨人軍』」として創立されたことから始まります。
親会社である読売新聞社の考えは、職業野球を数球団で リーグ制にすること。 特に、東京、大阪、名古屋の三大都市で試合することが 理想と考えていた為、阪神電気鉄道がその誘いを受けた ことにより、球団が設立さることとなった。
選手獲得
1935年から選手契約を開始した。 10月22日の門前眞佐人を皮切りに、 当時の中等野球のスター選手山口政信、藤村富美男、藤井勇、 都市対抗野球で活躍していた松木謙治郎(大連実業)らと契約し、 商号「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名「大阪タイガース」として、 同年12月10日に産声を上げました。 1936年に入ると、若林忠志(川崎コロムビア)を1月9日に 景浦將(立教大学)と2月28日に、と次々に有力選手と契約。 球団結成記念試合の4月19日までに獲得した選手は17名。
公式戦開始
1936年に始まった公式戦は、春に第1回日本職業野球リーグ戦、 夏に連盟結成記念全日本野球選手権、秋に第2回全日本野球選手権 と3シーズンに分けて、東京、大阪、名古屋の3都市圏で試合を 行う形となった。 最初の春シーズンでは、連盟結成の披露試合として、 関西の3球場 甲子園球場、鳴海球場、宝塚球場が利用され 3大会が開催された。 しかしながら、アメリカ合衆国遠征を行っていた東京巨人軍が 出場せず、名古屋金鯱軍も途中で遠征にでてしまった為、 シーズンを通しての優勝が決定しなかったという記録に なっています。 夏、秋の各シーズンでは、各大会で1位になった回数で シーズンの優勝となる勝ち点制が採用された。 夏シーズンの名古屋大会で大阪タイガースは1位になった にもかかわらず、親会社のライバル関係が強い阪急軍に 勝てなかったことが理由で、初代監督の森茂雄は解任され、 監督には石本秀一が就任する。 その後、秋大会は、24勝6敗1分けとし、東京巨人軍と 勝ち点2.5で並んだ。 その為、優勝決定戦を12月、洲崎球場で開催されたが、 1勝2敗と惜敗してしまう。 球団設立時から、お家騒動はあり、当時から巨人軍とは ライバルだったんですね。
優勝を!
1937年秋、1938年春には、球団史上初、球団史上唯一の 2シーズン連続優勝をはたす。 松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らといった強力打線を 擁していたことに加え、御園生崇男、西村幸生が加わり、 投手陣が安定した為といえる。 この2年間は、年間優勝の2連覇を果たしている。 ちなみに、決定戦の相手は、2年とも東京巨人軍であった。 ただし 1939年は面白い記録を残す年になりました。 全球団に勝ち越ししながら、優勝を逃して2位という結果でした。 これは、日本プロ野球史上、最初で最後の珍事となっています。
戦争による影響
1940年には、日米、日英の関係悪化に伴い、 敵性語とされた英語の使用自粛を余儀なくなり、 球団名を『阪神軍』に改名されました。 日中戦争・太平洋戦争が激化し、徴集および召集が拡大化し、 選手が確保できないというリーグ運営が苦しい状態だった。
1944年は、監督兼主戦投手の当時37歳の若林忠志が 35試合中31試合に登板するという異次元の活躍により、 タイトル総なめはもちろんのこと、3度目の優勝をはたす。 以降、戦争激化は申告で、1944年は総進軍大会、 ならびに1945年1月の正月大会(非公式の大会)に 阪神と産業の合同チーム『猛虎』の名称で参加しましたが、 1945年3月に活動停止を余儀なくされた。