阪神タイガースの過去を振り返ります。
今回は、1960年代にさかのぼります。
1961年 阪神タイガースへ
1961年4月1日に名前が変わりました。
商号を「株式会社阪神タイガース」 球団名も「阪神タイガース」へ変更しました。
1960年のトピックスとしては、藤本勝巳選手が 最多本塁打と最多得点の打撃二冠を獲得したことです。
1961年は混乱の年でした。 成績の低迷と主力選手との衝突を繰り返した金田正泰監督が シーズン途中で解任されました。
巨人時代に7度のシーズン優勝を経験するという経歴があり、 ヘッドコーチを務めていた藤本定義が後任監督についたが、 12年ぶりBクラスの4位に留まった。
1962年 リーグ優勝!
1962年は、藤本の手腕もあり、15年ぶりの、また、 2リーグ制になって初めての優勝をはたすこととなる。
投手は、小山・村山の2本柱のエースに、 内野は、遊撃に吉田、三塁に三宅秀史、二塁に鎌田実といった 名手を揃え、守りの野球が功を奏した。
ただし、日本シリーズでは借敗を喫することとなる。
優勝の反動の1963年
1963年は不本意なシーズンとなる。 昨年の優勝の慢心だけでなく、2月のキャンプにアメリカ、 デトロイト・タイガースのキャンプに参加するが、ここで デトロイトのコーチに開幕からのアドバイスを真に受け、 ハードなトレーニングをせずに旅行気分に!
シーズンはスタートから不調で、そのまま浮上することなく 3位に、かつ、個人タイトルが一人も取れずの年だった。
エース小山放出も、、1964年
1964年は、エース小山と毎日大映オリオンズの4番・ 山内一弘とのトレードからシーズンが始まる。
小山の穴をバッキーが29勝9敗と見事に埋める。 かつ、村山も22勝18敗と好調で、この二人で阪神の 80勝中の6割以上の勝利を上げるという活躍により、 リーグ優勝を収める。
投高打低 1965、6年
1965年は、引き続き、村山25勝、バッキー18勝の 2本柱の活躍もあり、チーム防御率はリーグ1位の2.47 と投手王国を築き上げた。
一方で打線は全く振るわず、チーム打率がリーグ最下位の 2割2分0厘、、、投手が良くても点が入らなければ、 勝てないというジレンマに陥て、結局3位に! 1966年も、相変わらず打線は不振でチーム打率は リーグ5位の2割3分3厘。
そんな中でも、村山実は孤軍奮闘し、24勝とも2年連続の 最多勝と沢村賞のタイトルを獲得! しかしながら、チーム成績は3位だった。
新戦力が台頭 1967年
1967年は、リーグ3位ながらも、新たな戦力の台頭し、 活気のあった年となる。 投手では江夏豊が入団し、村山の18勝に次ぐ、12勝と、 さらに、奪三振のリーグ最多の225個を上げた。
野手も二年目の藤田平が、打率は球団3位の2割9分1厘で、 本塁打を16本。なにより、名ショートの吉田義男から 遊撃手のレギュラーを継承することとなる。
江夏が最多勝! 1968年
1968年は開幕5連敗で幕開けにて前半戦は不調に、 8月に調子を取り戻し追い上げ、一時1.5ゲーム差まで 猛追も、最終的には巨人に次いでの2位。
村山が前半戦不調で最終的に15勝8敗も、江夏はそれを 上回る、25勝で最多勝、三振は401個のリーグ最多、 1試合16奪三振のセリーグタイ記録を樹立などの大活躍だった。
打線に光、田淵幸一 1969年
1969年は相変わらずの投高打低。 投手は、防御率1位江夏、2位村山、3位鈴木と3位まで独占。
打線はチーム打率は2割2分2厘と低調。 ここまで打てないと、防御率上位の村山、鈴木が勝ち越せない 事態に。
この状況ではさすがに勝ちきれず、2位に。。
打線で唯一良かった点は、田淵幸一が、本塁打22本、打点55の 好成績を上げて、新人王を獲得したことであろう。