タイガースの歴戦記No.8 さらば、バース、掛布、フィルダーまで。。

阪神タイガースの過去を振り返ります。

今回は、ファンに愛された助っ人バース、掛布との別れの1988年とその翌年1989にさかのぼります。  

第二次村山実政権も振るわず、、1988年

1988年は、監督に2回目となる村山実を迎え、再建を期待され、スタートする。   

この年、日本初の屋根付き野球場である東京ドームが 開場する。  

そのオープン戦では阪神タイガーズとも因縁があった江川卓の引退登板が開催された。  

その相手に指名されたのは、ミスタータイガーズ 掛布雅之だった。  

巨人のエースと阪神の4番とこの時代の名勝負と称された二人。  

一つの時代の終わりを感じさせられました。  

この年のタイガースは、4,5月は5割、3位をキープするも、その後は勝率を3割程度で推移し、5位に7.5ゲーム差をつけられ、2年連続での最下位と低迷。  

明るい話題は、少年隊と称された和田豊、大野久、中野佐資と言った若手の台頭というぐらいだった。  

悲しい別れ、、バース&掛布

逆に悲しいニュースが続く、近年の阪神タイガースを引っ張てきた2人がチームを去ることとなる。  

まずは、ランディ・バース。  

この年、長男の病気療養の為に5月に帰国し、そのまま、来日することなく、シーズン途中の9月に解雇となる。  

これほど、ファンに愛されたキャラクターの悲しすぎる別れであった。  

続いて、ミスタータイガース・掛布雅之。  

故障続きでかつての豪快な打撃は蘇らず、9月14日に現役引退を表明、10月10日、甲子園球場での最終戦が「引退試合」となり、多くのファンに見送られて、バットを置いた。

3年前は最高の成績を残し日本一に貢献し、近年のチームの中核選手だった二人のヒーロー退団というファンにとっては非常に悲しい年であった。  

嵐のようなフィルダー 1989年

1989年は、外国人選手と機動力で新しい阪神野球の年となったが、チームは振るわず、5位に低迷。  

チームは、投手キーオ、4番フィルダーの両外国人の活躍に勢いづけられる。  

若手の1番中野、2番和田の機動力がクリーンナップ 3番岡田、4番フィルダーに繋ぐというスタイルが確立した。  

また、そのチームをけん引していたフィルダーは9月14日の巨人戦での水野雄仁からの三振後に、地面に叩きつけたバットの跳ね返りは手に当たり骨折してしまう。  

本塁打38本とそのタイトルを争っていた最中での残念すぎる離脱となった。  

もっと残念なことは、フィルダーはその後一度も来日することなく、阪神タイガースを去ることだろう。  

契約更新を希望する球団に対し、フィルダー側から年棒の大幅UPと5年という長期の複数年契約の条件を突きつけられ決裂したと言われている。  

2年続けて、活躍した外個人の主砲を失う形となり阪神球団の外国人とのフロント契約交渉の弱さが浮き彫りになった。

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