阪神タイガースの過去の歴戦を振り返るシリーズです。
今回は、中村勝広監督の6年目シーズン1995年、とその翌年1996年にさかのぼります。
懲りない助っ人戦略 1995年
1995年は、ここ2年間、和製大砲の獲得で失敗した為、外国人に活路を見出す方向となった。
3番、4番を新外国人を置き、3番サード:クールボー、4番ファースト:グレン、5番レフト:石嶺和彦 のクリーンアップでシーズンをスタートする。
グレンは、オープン戦から好調で開幕戦から来日初本塁打を放つなどの好調な滑り出しをするも、夏場に古傷のわき腹痛に苦しんだ。
逆にクールボーは怪我で出遅れたものの、調子を落としたグレンの穴を埋めるべく復調する。
結果的に二人とも本塁打は20本をクリア、打点も77打点と並び、及第点で来期への契約更改するに至る。
来年を通して活躍してくれると、、、と甘い期待をファンとしては喜べる成績ですね。
チームとしては、4月から最下位に位置。
中日と2弱の体制となり、4位にも浮上することなく、7月に中村勝広監督は退任する。
後任は二軍監督であった藤田平が代理で就任するも、打開できず、結果的に最下位に終わる。
暗黒の時代 1996年
1996年は、前年からの2外国人グレンとクールボーは共に不振で、6月中に共に途中解雇となり、そのまま帰国することとなる。
その穴埋めで獲得した外国人ケビン・マースとクレイグ・ワーシントンは全く使い物にならず、と苦労する。
成長した若手選手としては、20本塁打以上の22本を放ち5年目の桧山進次郎、二桁勝利を上げた2年目川尻、3年目藪が先発中心で活躍した。
田村勤の復活や郭李建夫のストッパー転向成功など投手陣は奮闘したものの、外国人にあわせ、日本人主砲の石嶺も不調のまま、この年限りで引退するなど、打線の不振は深刻なものであった。
当然ながらチーム成績も不調で、4月早々から最下位を独走体制に。
シーズン終盤に一時5位に浮上するも、最終的には定位置でフィニッシュに至る。
2年連続での最下位ということもあり、監督人事の2年連続でゴタゴタする。
最下位から一度もチームを浮上できない責任ということもあるが、9月12日に監督 藤田平は球団事務所に呼び出される。
球団社長の三好一彦からの解任通告を藤田は不服として、オーナーの久万俊二郎との面談を申し入れるほどに。。
結局、深夜の2時半までで決着せず、翌日9/1314時からの話し合いを再度もうけ、受諾することとなった。
監督の途中交代という後味の悪いことを2年続いた阪神球団。
暗黒の時代から復調する兆しのない厳しいチーム運営を強いられる。